(42) 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
     末の松山 波越さじとは
             (清原元輔)

(歌意) かたく誓いましたよね。
     お互いに涙で濡れた袖を絞りながら。
     あの末の松山を波が越すことが
     ないのと同じように
     決して二人の心は変わらないと・・  

   Our sleeves, all wet with tears, attest
   That you and I agree
   That to each other we’ll be true,
   Till Pine-tree Hill shall be
   Sunk far beneath the sea.  
        MOTOSUKE KIYOHARA   
写真は浦富海岸(鳥取県)ですが、歌われている末の松山は宮城県多賀城市にあります。
 海岸からは、かなり離れていて、そこまで波が超えることはありえない。それで、男女の変わらぬ愛の誓の言葉に「末の松山」という枕詞がよく使われるそうです。多賀城市の「末の松山」に撮影に行ったところ、松は住宅街の側にあり、絵にするには難しいと思い上記の場所の写真にしました。また、「末の松山」から30メートルほどのところに、九十二首の歌枕「沖の石」もありますが、これもまた絵になり難い場所でした。

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(43) 逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 
     昔はものを 思はざりけり
           (権中納言敦忠)

(歌意) あなたと逢って
   契りを交わした後の心と比べると
   昔は物思いなどしていなかったのと
   同じようなものなのだなぁ。

 How desolate my former life,
 Those dismal years,ere yet
 I chanced to see thee face to face;
 ‘Twere better to forget
 Those days before we met.  
     THE IMPERIAL ADVISER 
           ATSUTADA
作者の藤原敦忠は三十八歳の若さで亡くなっており、その父、藤原時平も三十九歳で亡くなっている。  これは、時平によって九州に追放された菅原道真の祟りではないかと噂されたそうです。  敦忠自身もその運命を予知していて、自分は短命であると妻に言ったそうで、さらに、自分が死んだ後に妻が誰と再婚するかも予言し、それが現実になったとされています。怖いですね。この歌は「後朝の歌」(男女が初めて一夜を共にした朝に、男性から女性に贈る歌)に分類されています。写真は御簾の飾り紐が結ばれていることと、契りを結ぶことを掛けて表現しました。        

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